大判例

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山形簡易裁判所 昭和47年(ろ)49号 判決 1973年3月27日

主文

被告人は無罪。

理由

一本件公訴事実の要旨は

「被告人は自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四六年九月二五日午後二時三〇分頃、大型貨物自動車(全長一一、七三メートル)を運転して山形市大字中野三四四〇番地山形県米穀株式会社敷地内から国道一一二号線に向かい時速約四キロメートルで左斜後方に後退しようとしたのであるが、このような場合自動車運転者としては後方の安全の確認のため国道に見張人を立てるなどしてその誘導等により後方の安全を確認しながら後退し、事故発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、見張人を立てる等の措置を講じないで右後方道路の安全不確認のまま後退した過失により、国道を右方から左方へ進行中の斎藤宗義(当時一六才)運転の自動二輪車を約三三メートル右斜後方に認め、急停止の措置をとつたが間に合わず、自車後部を同人の右側頭部に衝突させて左後方バス停留所にはねとばして転倒させ、よつて同人に加療約八ケ月間を要する右上腕骨々折、下顎部挫創、右肩肘部挫傷、頸椎挫傷の傷害を負わせた」

というものである。

二証拠<略>

本件事故発生現場は、南北に走る幅員約7.3メートルのアスファルト舗装された平旦な国道(一一二号線)上であつて、現場付近は南方は三〇〇メートル以上、北方は四五〇メートル以上を見通せる直線をなし、中央線で南進車線、北進車線に区分されている。

被告人は、右国道を大型貨物自動車(番号栃一一さ一三五二、全長11.73メートル、幅2.46メートル、以下被告人車という)を運転して北進し来たり、本件事故現場の東側にある山形県米穀会社敷地内の空地を利用して進行方向を南方向に転換するため、右空地付近で右転把して南進車線をよこぎつて右空地に乗り入れ、被告人車がほぼ国道と直角(東向き)をなし、且つ被告人車後部が国道東端から約4.0メートル東に位置する状態で停車し、運転席から左後方国道を注視し、南進車が全く無いことを確認したうえ、運転席右側窓から顔を出すようにして右後方国道を注視しながら、左転把しつつ時速約三ないし四キロメートルで左斜後方に後退を開始した。

被告人車の運転席左窓を通して見通せる左後方の国道の範囲は、国道東端に沿つて背の低い植込みがあるだけであるため、約七〇ないし八〇メートルは優にあり、他方運転席右窓から見通せる右後方の国道の範囲は、空地の南側にある前記会社の事務室およびさらにその南にある看板にさえぎられるため、被告人車後部右角に相応する国道上の地点からの距離にして、後退開始直前の状態で20.9メートル位、被告人車後部右角が国道東端に接するまで後退した状態で37.9メートル位、同じく中央線の手前(東)約1.0メートルの地点まで後退した状態で52.4メートル位である。

被告人車が前記速度で左斜後方に後退を続け後部右角が中央線の手前(東)およそ1.5メートルの位置付近にくるところまで後退した時、被告人は右斜後方の国道上を普通乗用自動車が北進接近してくるのを認めたため急制動の措置をとり、被告人車後部右角が中央線の手前(東)約1.0ないし1.1メートルの位置にある状態で停車したのであるが、右普通乗用自動車は北進車線を通過走行したものの、同車の約二〇メートル後方を、斎藤宗義(当時一六才)運転の自動二輪車(以下斎藤車という)が時速約五〇キロメートルで中央線の右側にはみ出して北進接近し、同人のヘルメットの右側頭部部分が停車して間もない被告人車の後部右角に接触し、斎藤車はその衝撃で安定を失つて約22.5メートル前方(北方)道路西端部に転倒し、右斎藤が公訴事実記載のような傷害を負うに至つた。(被告人車の停止した位置については関係証拠上くいちがいがあるが、この点については事故当日作成された被告人の警察官調書の記載および同日被告人車を使つて行なわれた実況見分の結果が最も信憑性が高いと認められるので、これにより右のように認定する。)

斎藤車は先行する前記普通乗用自動車に追随して走行していたのであるが、斎藤宗義は急制動、左転把もしくは警音器吹鳴等の何らの措置をとらないまま被告人車と接触したこと、先行車がはねる泥を避けるために右普通乗用自動車の進路の右側にはみ出す位置に進路をとつていたこと、被告人車後部右角の接触部位の路面からの高さ(1.4メートル)と斎藤が通常の運転姿勢をとつた場合のヘルメットの接触部位の路面からの高さ(1.5メートル)を比較対照すると斎藤は頭を低くした状態で接触したと認められること、等の諸点を総合すると、斎藤は本件事故当時、中央線付近に何らの障碍もないものと軽信し、先行する普通乗用自動車のはねる泥を避けることに気をとられ、もしくは雨が顔に降りかかるのを防ぐため、頭を下向きにしたままの状態で、しかも中央線を約一メートル右にはみ出した位置に進路をとり、被告人車が国道に後退進入してくるのに全く気づかないまま被告人車に接触してしまつた疑いが濃く、右は同人の重大な前方注視義務違反および通行区分遵守義務違反の運転行為と言わざるを得ない。

三、検察官は、被告人には誘導者を付してその誘導により後退する等の後方の安全確認の注意義務があり、被告人は右注意義務に違反した旨主張するので、右に認定した事実をもとに検討する。

被告人車の全長は11.73メートルで国道の幅員の約1.6倍に及ぶため、後退して南方向に進路を転換するには南進車線と共に一旦は北進車線をも遮断することになるのであるから、国道上の南進および北進車両に対して(本件においては後退進路上に歩行者等のありうることまでは顧慮しないでよい具体的状況にあつた)十分な注意を尽くす義務があり、その意味で誘導者を付してその誘導により国道上の左右の安全に万全を期して後退進入することが望ましいことは勿論である。しかし、業務上の注意義務として右の措置をとることが要求されるか否かは、後退進入する道路の状況、後退車運転席からの左右後方の見通しの状況等を勘案して決せられねばならない。ところで本件事故現場の国道の状況、被告人車運転席からの見通しの状況はすでに認定したとおりであるから右の状況のもとで誘導者による誘導なくして運転席からの確認のみにより後方の安全の確認義務を尽くすことができるか否かを検討することになる。

まず左後方国道を南進してくる車両への注意義務の点については、運転席左窓を通して北方約七、八〇メートル以上の範囲を確認できるから左後方国道の安全確認義務を尽すことは十分可能である。また、右後方国道を北進してくる車両への注意義務の点については、運転席からの右後方国道の見通しが建物等にさえぎられてかなり限定されているものの、なお、前記認定のとおり被告人車後部右角が国道東端に接する状態で37.9メートル位、中央線手前(東)約1.0メートルの地点まで後退した状態では52.4メートル位の見通しが確保されるのであり、且つ国道上を北進してくる車両からは、事故現場の一〇〇メートル以上手前から後退進入してくる被告人車の後部の右側面を容易に認識できる道路の状況にある。

このような状況のもとでは、自動車運転者は、運転席から、自車の後退によりまず遮断することになる南進車線への注意義務を尽したうえ、後退するに伴つて見通せる範囲の広がる右後方国道上を注視しつつ、ごく低速度で左斜後方に南進車線への後退進入を開始してよく、自車後部が中央線の約1.0メートル手前(東)に達した地点ではすでに右後方国道52.4メートル位の見通しが可能であるから、状況によつては同地点付近で、一旦停車して北進車をやりすごすなど適宜な措置をとれるよう右後方国道上を注視しつつさらにごく低速度で後退し、中央線を越えて北進車線に後退進入する方法をとることができ、右の方法によれば自動車運転者は、誘導者による誘導がなくとも左右後方の安全確認義務を尽くしつつ国道への後退進入による進行方向の転換をすることが可能であると考えられる。右のような運転方法をとる場合、運転席からの右後方国道上の見通しが必らずしも良好でないことが一応問題となり、誘導者を付する注意義務があるとする検察官の主張も主としてこの点を根拠とするものと考えられるけれども、後退車がごく低速度での後退進行を確保する限り、後退車の後部が国道の東端付近にさしかかつてから中央線の約1.0メートル手前(東)に達するまでにはある程度の時間(後退車後部が国道東端を超える時点から起算しても、時速三キロメートルとして3.1秒以上、時速四キロメートルの場合は2.4秒以上)を要することになり、北進車が通常の前方注視を怠らない限り本件事故現場の相当手前(南)から後退車の国道への後退進入を認識することができるのである。したがつて後退車の運転者としては、北進車が後退車の存在を認識し、少くとも後退車の後退進路付近では、本来の進路である北進車線内を通過進行する等後退車との衝突を回避すべく適切な運転態度に出てくれるであろうことを信頼してよいと考えられ、後退車が車体後部を南進車線上に進入させごく低速度で後退しつつあることを認識しながらなお中央線を約一メートルも右にはみ出した状態で進行を続ける北進車があり得ること、あるいは本件斎藤車のように前方注視を全く欠いたまま右同様の状態で進行してくる北進車のあり得ることまでも予測し、これを顧慮して誘導者を付さないままの後退を差し控えることまでは要求されないと解される。

そして本件においては、前記認定のとおり、被告人は、左後方国道に南進車が全く無いことを確認したうえ、右後方国道を注視しつつ、左転把しながら時速三ないし四キロメートルのごくゆつくりした速度で左斜後方に後退通行し、北進車線を普通乗用自動車が進行接近してくるのを認めて急制動の措置をとり、自車後部右角が中央線の約1.0ないし1.1メートル手前(東)に位置する状態で停止したのであるから、被告人は国道への後退進入にあたり自動車運転者として要求される左右後方の安全確認義務を一応尽くしたものと認められ、したがつて被告人に過失があつたものということはできず、本件事故の発生は、もつぱら斎藤のすでに認定した重大な交通法規違反の運転行為に起因するものと認めるのが相当である。

以上の次第で結局本件公訴事実は犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(二宮征治)

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